自由帖

自由に、思いついたことを書きます。

友人の乳の話

先日、友人からSNSのダイレクトメールで1枚の写真と、短いメッセージで近況が送られてきた。

その送り主であるNさんには、ベトナムで働いているときに出会った。それから私が日本へ帰国したのちに、ベトナムへ旅行に行った4年前に会ったきり、そういえばしばらく連絡をしてなくて、時折、どうしているかな、などと思ったり思わなかったりしていたところだった。

彼女は、手術で乳房を切除したと教えてくれた。

添えられた写真は、上半身素裸の、術後の生傷隠さぬ素敵でクールな自撮り写真だった。眉をしかめて、いつものどや顔をしている。そして平らな胸部のかつての下乳に当たる部分には、一筋の線が引かれていた。

 私が出会った当初、Nさんはレズビアンで、のちに仲良くなってから話しているとき、自らの性自認は「女2割男8割かな」なんて笑いながら話してくれた。気持ちとしては男性だけど、女性としての身体も持っているので、やはり2割は女性なのだと言うその時の話を聞いて、そういうものなのか、なんて間抜けに私は考えたのだった。

ハンサムで実に頭が良くて、とても優しい彼女は、女性にもてて、また惚れやすい人だった。きっとちょっとだけ私のことが好きで、しかし素敵な元恋人や恋人(もちろん女性)がいつも側にいて、自分勝手かもしれないけれど、私は恋愛感情抜きにそういうNさんがとても好きだった。

 Nさんは私より確か5つくらい年下だけど、会うたびに私に「可愛い可愛い」ともだえるように言う姿そのものが、とても可愛かった。

 それから、すっかり忘れていた、ベトナムに住んでいた2年ほどの間のNさんとの交友をまざまざと思い出した。彼が恥ずかしがりながら手作りの韓国料理を初めてプレゼントしてくれたことから、一緒にビールを飲んだり、バイクでいろんなところに連れて行ってもらったり、一緒にスピーチの練習をしたりしたことを、蓋をしていたかのように遠ざかっていた思い出たちに、それがそこにあったことに驚くほどに、気がついた。

そして、その中で彼が感じていたであろう生きづらさもまた私は思い出した。孤独とか、聡明さとか、優しさとか、それでも良き理解者が周りにたくさんいたこととか、それらすべてが時々少しだけしんどそうだったこととか。

Nさんの周りには、女性として生まれ女性を愛する人、女性として生まれたけれど男性としての自分を持つ人、そのいずれでもない人が、当たり前のようにいて驚いた。もちろん当たり前などではなく、理解し合っているから一緒にいるのだろうけど、私はそれまで、彼らのような人たちと関わったことがなかったのだ。LGBTQと表現されるであろう彼らについて、私は適切なことばで語るほどの知識がない。彼らは、若者らしい悪い言葉を使って悪態をつき、煙草や水煙草を吸い、よくお酒を飲んだけど、みな思慮深くておもしろく、優しい人たちだった。

 それから私は、ふと視線を落とすと目に入る、自分の乳房について考えた。服の上から膨らんだ、確かにそこにある脂肪の塊、丘陵、あるいは何かのシンボル。そして、これを切り落とすことについて、ふと考える。ある人は切り落とし、ある人は膨らませる、そのことについて思いを巡らせる。私は切ろうとも膨らませようとも思わないそのものが、なぜかここにある不思議を考える。ジェンダーってよくわからないな、私自身女であることもよくわからないし、もちろん男性であることはもっとわからない。一応これまで女として生きてはいるけれど、まるで女らしさなんてものもわからないし、そんなことすらもう、時代遅れなのかもしれない。私は自分の「女」らしさのようなものを見つけると、少し居心地の悪さすら感じる。疑いもなく自分を女だと思っていてもこうなのだから、性というものは不可思議だとおもう。

とにかく、この度の報告を聞いて、またひとつ自由になった彼の久々の一報に、私のほうが救われたような気がしたのだった。彼が私を忘れずにいてくれたことが、見つけてくれたことが、本当に嬉しかったのだ。 長い時間忙しさにかまけて振り返ることもしなかった5年前のことを、彼と一緒にいた時間をありありと思い出すことができた。

可愛くてハンサムで不敵で、中指を立てて舌を出しているような、いかにも少年らしい彼に、今私はとても会いたい。